2019.3.1

目利きの一頁

川島公之

 

僕が入社した30 年前頃には、叩き上げの目利きの先輩方がたくさんいた。龍泉堂の大番頭であった杉山定敏さんもその一人で、あれは入社して3 か月目を迎えた頃であろうか、当時の高橋三朗社長から、「今日は杉山さんが来るから、キミ、よく見ていなさい」と言われた。どんな人が来るのだろうかと店の入口で待っていると、70 歳を超えたくらいの爺さんが入って来た。僕の顔をじろっと見るなり「おい、誰だよ」と言うので、「新入社員です。よろしくお願いいたします」と答えると、「ほう」と言って応接間に向かったかと思ったら急に向きを変えてトイレに入ってしまった。高橋社長はそのまま応接間に入ったが、杉山さんはトイレから一向に出て来ない。

 

心配になってトイレの前で待っていると、10分ほどしていきなりドアが開いた。また目が合い「おい、誰だよ」と言うので、また「新入社員です」と言って頭を下げた。杉山さんは「ああ、そう」と言って応接間に入って行った。僕は部屋の片隅にあるスツールに座り、杉山さんを見つめた。杉山さんは、フィルターの無い煙草をくわえたまま、その年の6 月に高橋社長がNY とロンドンで買い付けてきた品物を一つひとつ丁寧に手に取って見ていた。僕は、杉山さんのくわえている煙草がだんだん短くなって来てそれに応じて灰がうずたかくなっていくのに眼が行って、この人はいつ灰皿に煙草を置くのだろうかと、そればかり気になっていた。

 

杉山さんが鈞窯の鉢を手にした時である。案の定堆く積もった灰がぼろっと落ちて、鈞窯の鉢の中に転がった。「あっ!」と声が出かかった時、杉山さんはその鉢をゆっくりとテーブルの上に置いて言った。「高橋君、これは、名品だよ」その時、僕は何て世界に入ってしまったのかと不安に襲われた。すると杉山さんが突然振り向き、「おい、坊や、それをその上に乗せてくれよ」と言った。「それ」というのは、おそらく今見ていた鈞窯の鉢だと思いそれに手を伸ばすと「違うよ。これ・・じゃなくて、それ・・だよ」と言って、何だか背の低い古砡の琮を指さした。色がくすんでいて形も歪んでいる。「その上」というのは床の黒塗りの敷板のことだろう、その古砡を敷板の上に乗せた。

 

 すると杉山さんが「おい、もうちょっと銀座に寄せろ」「はっ? 銀座?」「行き過ぎだ、日本橋に戻して」「日本橋?」何回かやり取りしているうちに、「銀座」は左、「日本橋」は右ということがわかった。「七面倒臭いなあ、右とか左とか言ってよ」と内心思ったが、当然文句を言うことなどできず、杉山さんの指示にしたがって古砡を動かした。「右に回して。違う、反対。ちょっと行き過ぎ。おい、もうちょっと回せ。うん、もう少し、そう、少しずつ、もうちょっと…。よし、そこだ!」僕が手を止めると、杉山さんはしげしげと眺めた後、「おい、これでこれが、お化けになっちゃった」と言って笑い声を上げた。いったい何を言っているのか? 入社3 か月目の若僧には極めて難解であった。高橋社長を見ると、満足気に微笑んでいる。杉山さんに眼を移した。杉山さんは笑いながら、三本目のピースを口にくわえようとしていた。僕の眼はただ、空を掴んでいた。

 


 

繭山龍泉堂では、川島公之氏によるギャラリー・トークを行います。

美術のなかの「馬」』

4 月26 日(金)・27 日(土)

午後3 時~ 無料

詳しくはこちら

トップへ
単語で探す
エリアで探す
ジャンルで探す
内容で探す