2015.2.9

日本橋ちょっといい話:住み込み時代の思い出

日本橋ちょっといい話:住み込み時代の思い出

日本橋ちょっといい話:住み込み時代の思い出

 日本橋1~3丁目にかけて、目下大掛かりな再開発プロジェクトが進行中で、2020年オリンピックまでに街の風貌と人の流れが相当変わることと予想されます。昼間は建設関係各位が闊歩する3丁目界隈も夜間は至って静かなもの、却って静か過ぎて怖いくらいです。

 私は壺中居に入社してすぐに同店舗内に住み込みを始めて、結婚するまで丸5年間「日本橋居住者」を体験しましたが、今でも当時に帰った「悪夢」をたまに見ることがあります。京橋から日本橋にかけて同業のお店は当時から少なくありませんが、店舗内で住み込みを励行する店舗は少数派で、水戸忠様、繭山龍泉堂様ほか数えるほどでした。管見の限り、今では住み込みの習慣は絶滅したかと存じます。

 今とは違い、お向かいの髙島屋様を始め、エリア内の百貨店はみな定休日があり、営業時間も10:00-19:00が普通でしたので、髙島屋さんの定休日・水曜日は普段以上に壺中居周辺は静かでして、20:00を回ると人通りも極端に少なく、独り歩きするにも気味が悪いほど。それでも「住めば都」で、終業後は自由気ままに遊び呆けたのも事実、大変懐かしい思い出です。

 当時はコンビニエンスストアが極端に少なく不便を感じました。京橋の「ぬ利彦」様の1Fが準コンビニ店舗で惣菜もあり、良質の酒類も廉価でしたので頻繁に利用しました。1990年の夏の夜、仕事を終えて、作務衣に着替えて同店へ買い出しに出掛ける途中、如何にも不審に見えたのでしょう、生まれて初めて職務質問を受けました。幸い、すぐに放免されましたが、気分が良い筈もなく憮然として歩みを早めますと、「ワーッ!」、「頑張れ頑張れ!」、「やったあー!」等々頭上のあちこちから歓声が上がっています。それがバルセロナオリンピック、女子競泳200M平泳ぎ・決勝ゴールの瞬間なので、かの中学生・岩崎恭子女史が空前の大快挙を成し遂げたのでした。

 不覚にもこの時初めて、日本橋~京橋地区に、とりわけ個人ビルの最上階に少なからぬ住民がれっきと生活していることを知りまして、意外の感に打たれました。

 「壺中居」と「ギャラリーこちゅうきょ」に挟まれたエリアの一角に、老舗「喫茶ロータス」様があり、ご主人とスタッフの皆さんが元気で明るく親切故、都会のオアシスとして愛され続けています。

 私の住み込み時代にはそのロータス様の脇に当るスペース、約2~3坪だったでしょうか、そこが「よろず屋=御菓子屋」さんで、今のロータス御当主の御母堂様が独りで切り盛りされていました。当然日中だけの営業ですが、常にOLやらサラリーマンやらで賑わい、勢い御母堂様は「名物おばあさま」として知らぬ人は「もぐり」視されるほどでした。実際おばあさまは上品で温厚かつ親切この上なく、しかもキリッとした美人ですので、若い頃は相当騒がれただろうと想像します。私も隣組故、三日と挙げず通ったものです。

 住み込み時代に国政をはじめ、都合3回選挙が執行されて、「日本橋住民」として投票に赴いた先が中央区立阪本小学校でした。衆議院議員選挙だったかと記憶しますが、投票日の朝一番に投票所へ参りますと、期せずして「喫茶ロータス」御隠居様=おばあさまがいらっしゃられ、「アラッ、どーしたの!?」と驚かれるので、初めて私が中央区民=壺中居世帯主だと打ち明けますと、改めて驚きかつ喜ばれました。他の選挙立会人諸氏にも「へー、そうなんだ!」「新しい住民が出来て良かった良かった」と冷やかされましたが、投票を終えるとその方々から缶珈琲と蜜柑を恵投されて却って驚きました。良い意味で信じ難い思い出です。

 投票日の翌日からは、より一層おばあさまにはご親切とご厚意を頂戴しました。そのロータスのおばあさまは先年天国に召されて、「よろず屋」は自然廃業されました。他にも名物「日本橋っ子」が漸次鬼籍に入られましたので、光陰矢のごとし、入社以来25年目を迎えますが、まさに昨日の夢のようです。幸いにして日本橋には陰険な住民は皆無だろうとは体験上での私見ですが、これは今後も滅多に変わらないでしょう。実際、このエリアは親切な住民ばかりですので、通勤者も自然とそれに感化されていることと容易に想像されます。

 変貌を遂げつつある日本橋エリアに「ロータス」のおばあさまもきっとびっくり仰天されるでしょうが、「このまちの心意気=親切心」だけは決して変えぬよう、私自身日頃微力を尽くしたいと存じます。



ギャラリーこちゅうきょ  伊藤潔史

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